創業30年を迎えて

ごあいさつ

株式会社アバンセコーポレーション 代表取締役社長 林 隆春

株式会社アバンセコーポレーションは製造業に特化したアウトソーシングカンパニーとして昭和55年に誕生し、今年で30周年を迎える事となりました。『論語』に書かれている『三十にして立つ』から30歳を而立(じりつ)と呼ぶように、当社にとっても企業としての生き方を確立する自分探しの30年だったような気がいたします。この日を迎える事が出来たのは誠に意義深い事で、株主、お客様、従業員の皆様を始め多くのステークホルダーの方々のご厚情に心よりお礼申し上げます。1978年~1979年の第2次オイルショックによるダメージの回復途上の1980年に当社は創立、1990年にはバブルの崩壊、2000年にITバブルの崩壊、そして一昨年のリーマンショック以降の世界同時不況と、ほぼ10年毎にアウトソーシングの業界は時々の経済に翻弄されてきました。力不足の私達の業界は、企業様が望まれるリスクマネジメント対応力もままならず、従業員や社会の信頼も勝ち得たとは言えません。経済学に「合成の誤謬(ごびゅう)」という、ミクロの世界では正しくてもマクロの世界では経済にダメージを与える結果になることを指す言葉がありますが、まさに我々は部分最適産業で全体最適ではなかった事を実感しています。

お客様、従業員の人たちとアウトソーシング業者、この三者の満足度のバランスをどこでとるのかが私どもに求められています。お客様の総額人件費削減と人件費の変動費化に対する思い、働く人たちの長期の雇用安定とスキルの開発、そして私ども業者の外部依存体質からの脱却と地域社会との共生。これは一見相反する命題ですが、多くのステークホルダーの皆様と議論し、真摯に取り組む事で光が見えてきました。多弁を弄する紙面はありませんが、日本語教育3級レベルの外国人労働者には、不況時は雇用保険、基金訓練(職業訓練)、行政の失業対策事業的な緊急雇用を利用したり、繁閑のある産業間における労働者の移動を行ったり、最悪の場合、雇用保険と共済制度を併用した帰国支援を利用して母国で待機する事で2年から2年半程度生活の維持が可能となります。他にも様々な対応策を考えていますが、それにはある程度のボリュームが必要です。リーマンショック発生時に当社は3000人余りの従業員がいましたが、この程度の従業員数では到底セーフティネットの機能が果たせず、私たちの業界は見苦しい結果をお見せする事になりました。企業様にも従業員の人たちにも安心して関わってもらうには、様々な産業に働く分母が2万人程度はいないと対応が不可能だという事も分かってきました。 『論語』の『四十にして惑わず』に習い、不惑の年に向け、ステークホルダーの人たちの力もお借りし、企業様が安心して生産活動に専念していただける雇用のセーフティネット産業構築に向け邁進する所存でございます。なにとぞ、今後とも格別のご指導、ご支援を賜りますようお願い申し上げ、ご挨拶といたします。

アバンセ30年史

アバンセコーポレーションの原型であるシンメイはどういった形で設立されたのですか。

インタビューの様子

シンメイの前は、林商店という個人商店の形で経営していましたが、会社の規模や取引先の規模が大きくなるにつれて個人商店という形態での限界が出てきたため、株式会社化しました。

創業当時から業務請負という業態で会社は運営されてきたのですか。

いえ、一番最初は構内外注という形でスタートしました。一宮は繊維業が盛んでしたから、繊維工場の出荷や梱包など生産にまつわる基幹業務の周囲にある業務を受けるのが操業当初のシンメイの業態でした。その後、生産ラインそのものにも人がほしいという取引先の要望があり業務請負という業態へと変わっていきました。昭和57年頃のことです。

従業員に外国人を使い始めたのはいつ頃からでしょうか。

ロンドリースにて仲間と [ブラジル]

私が初めてブラジルに向かったのは昭和60年の秋でした。当時の日本はバブル経済のとば口にあり、東北や九州などにも工場が進出し現地の工場で現地の人を雇い入れる形ができ始め、当時私たちがとっていた別の地方から人を呼び寄せて働かせるというモデルが成り立たなくなってきました。また従業員とのトラブルもあり人を使う難しさを感じていた時期でもあり、打開策を求めてブラジルへ行きました。降り立ってみると、日系人はどれだけでもいますが来日させる業者はいません。ここにビジネスチャンスを感じて日系ブラジル人を使うことに決め、昭和61年には彼らを来日させました。

当時、外国人が日本で働くのは社会的に珍しかったのではないですか。

当時を語る林

もちろん、とても受け入れられる状況ではありませんでした。まずビザの問題。一世の人は日本人ですから来日に問題はありませんが、そうではない人が就労ビザをとることはできませんでした。一世の家族という形で呼び寄せると、次は住居です。外国人が住むとなると不動産屋には相手にしてもらえませんでした。
そこで新聞屋やガス屋など人の出入りに詳しい業者を訪ね、空いた部屋を探して大家と交渉するような状況でした。
また来日者は日本の文化を知らないため、生活習慣も身につけさせなければなりませんでした。家の中では靴を脱ぐ、風呂には蓋をする、など日本人にとっては当たり前の習慣から教えました。
工場でも同様です。朝の全体でのラジオ体操、就業時間後の残業などの様々な習慣の違いを一つ一つ教え込み就労先で問題なく働いてもらえるよう努力しました。

外国人を使う苦労を乗り越えて業績を上げてこられた30年間で、
平成3年と平成9年の二度社名を変更されていますが、
それぞれどういった事情があったのでしょうか。

新日系人宅訪問 [フィリピン]

一度目のヘイセイ興産へ変更した当時は、バブル経済が崩壊し苦境に陥った時期でした。そこで経営資源を集中させるために、分社化していた子会社を一本化させました。
二度目のアバンセコーポレーションへ変更した時期は、会社の業績拡大に専心していました。当時は会社規模を大きくし知名度を上げることが、そのまま社員の幸せへつながると考えていました。

社名変更・子会社設立など会社の形が変わり、
東は東北地方から西は中国地方まで日本中に営業所がありますが、
本社は30年間愛知県一宮市にあります。
この地域に本社を置くこだわりはございますか。

それはやっぱり居心地がいいからかな(笑)。今の本社ビルを建設するにあたって、名古屋に本拠を構えようかと思ったこともありますし、今も全く考えないわけではありません。いい人材はやはり名古屋に集まっています。例えば愛知県東部の豊田や知立などの人材が一宮に来るとは思えません。ただし、これから世界に向かって共感を呼ぶビジネスを発信していこうと考えている中で、立地を重要視する必要はないかもしれないと思っています。フィリピンやブラジルから見て東京と名古屋と一宮にどれほどの違いがあるのでしょうか。大切なのは、一宮の優良企業というようなローカルな地位に安住せず、新しいビジョンを発信し続けることだと考えています。

アバンセコーポレーションには、
現在ライフサポートとエレメントという二つの子会社があります。
これはそれぞれどのような意図をもって設立されたのですか。

郊外学校訪問 [中国]

まずライフサポートですが、平成11年、介護保険制度が導入された年にまずはアバンセの一部として介護サービスを開始しました。当時も今も変わりませんが、行政の福祉サービスはいきわたっていませんので、企業が進出する余地は大きいと考えていました。現在では訪問介護・グループホーム・デイサービスなどサービスの内容を拡充し、行政の手がいきわたらず、なおかつ一部の企業のような利用者負担金の大きいサービスでもない、いわばその中間の存在となれるよう方策を練っています。
そしてエレメントについては、これからサービス業中心へ日本経済が変化していく中でサービス経済が発展しつつある東京に進出し、アバンセとしてサービス経済に対する事業展開をすることを目標として進出しました。

今後のアバンセコーポレーション、
そしてグループとしての目標はどういったものですか。

製造業は今後ますます海外へ進出していくでしょう。それは単に日本企業の都合だけではなく、中国やフィリピン、カンボジアなどの東アジア諸国が経済発展するにつれて、かつて日本がそうであったように、国民が必要とするものを現地で生産し消費する経済のグローカル化が進むでしょう。企業も海外で工場を作り現地で生産する形へと変わることが見込まれます。
また日本では、経済の中心が製造業からサービス業へスライドしていく中で、必要とされる労働人口そのものも、労働日数・時間といった雇用形態も変わっていくでしょう。この変動に対し私たちは、ある企業の生産減に対して別の企業を紹介するなどして雇用の溜めを私たちの方で滞留できるようなサービスを提供する形になるのではないかと考えています。そのために雇用訓練なども実施していますし、究極的には解雇のない派遣会社となれるかもしれません。
このように日本を含む東アジア各国に対し、その国々それぞれの経済・社会情勢に応じた雇用を提供し、社会全体がアバンセグループのステークホルダーとなっていただけるような、共感性の高いビジネスを提供するのが目標です。

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